大人の教会学校(於:光カトリック教会 肥塚神父)資料 2021年3月 

 

【ミサを生きる】(4)

 (「ミサの鑑賞―感謝の祭儀をささげるために—」吉池吉高 オリエンス宗教研究所)

 

 ※ミサを基礎付けるもの イエスの復活

  ミサが最後の晩餐の記念として、なぜ今も、共同の食事の形を保持しているのかということを考えてみました。

 しかし、ミサは最後の晩餐の記念だけではありません。最後の晩餐とその記念してのミサとの間には、大きな溝が横たわっていることを私たちは知っています。それは、イエスの十字架の死と復活という福音書の語る出来事です。このことがミサとどのように関係しているかを見なければなりません。

 弟子たちはイエスと自分たちとのかつての絆を、イエスの死後も存続させていくために、イエスの最後の願いに忠実であろうと願ったことでしょう。けれども、彼らが実際にそのような思いに立ち戻り、一つになることができるためには、新たな出来事が必要でした。

弟子たちは十字架のイエスを見捨てて、彼を裏切ってしまったからです。その弟子たちがイエスのあの最後の願いに立ち戻り、それを伝えていくようになるには、イエスとの関係において弟子たちに新たな何かが起こらなかったなら、そのような気持ちにはなり得なかったことでしょう。十字架に向かうイエスを見捨て、裏切ってしまうことによって、弟子たちはイエスを追憶する資格を失ってしまったのです。自らそれを放棄してしまたのです。

 弟子たちが体験したイエスの復活という出来事がなかったなら、最後の晩餐の記念としてミサを執り行うことなど到底考えられなかったことでしょう。たとえ、弟子たちがイエスを想い起こし、自分たちの非を悔いて、イエスのあの遺言に立ち戻り、それを守り行おうとしたとしても、それは弟子たちにとって死ぬほどつらい、悲しみの儀式以外のなにものでもなかったはずです。そしてもしそうなら、それは彼らの間だけで、しめやかにひっそりと執り行われるべきものであったはずです。けれども、教会が弟子たちから受け継いだミサは、そのような悲しみに満ちた暗い儀式ではありません。むしろ、それはその名が示す通り、喜びに満ちた感謝の祭儀です。

弟子たちの中に、新たな何ごとかが起こらなかったなら、このようなイエス・キリストを記念する祭儀は生まれなかったに違いありません。そのまったく新たに弟子たちに起こった出来事、それが福音書の語るイエスの復活という出来事です。

 復活のイエスとの出会いの体験を通して、弟子たちは自分たちがゆるされていることを知ったのです。思い出すだけでもみのすくむほどに、弱さと不信仰を露呈してしまった自分たちを、何事もなかったかのように受け入れてくださる復活されたイエスと、彼らは真実に出会ったのです。・・・弟子たちが再び出会うことができたのは、彼らが十字架上に見捨てたイエスにほかなりません。けれども、そのイエスは彼らを信頼しきって、かつてのように、しかし、今やまったく新たに、自分の願いを弟子たちに託すのです。

(「ミサの鑑賞―感謝の祭儀をささげるために—」吉池吉高 オリエンス宗教研究所)

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  大人の教会学校 資料一覧 2021

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2021年1月「ヨセフ年」・・隠れた生活

2021年2月【​ミサを生きる】(3)

2021年3月【ミサを生きる】(4)