聖堂の開いている時間 

 聖堂は、木曜日の午後1時半時~3時半頃と、日曜日の午前10時半~12時半頃まで開いています。どうぞお声をかけてご自由にお入りください。

*変更になることがあります。お越しの際は電話/ファクス/お問い合わせフォームで、お問い合わせ下さい。 

 その他の時間も、開いていることがあります。ご都合に合わせて開けることもできますので、電話やファクス、または、お問い合わせフォームでお問い合わせください。

聖堂玄関にはパンフレット、教会報などの印刷物がおいてあります。ご自由にご覧ください。

 

日曜日のミサにもどうぞ 

 ミサは聖書のことばを聴く「ことばの典礼」と、キリストの最後の晩餐と復活を記念する「感謝の典礼」に分かれています。

 「ことばの典礼」では聖書が朗読され、特に福音の朗読が中心になっています。

 「感謝の典礼」では、パンとぶどう酒、献金が奉納されます。

 ミサの起源は、キリストが12人の弟子たちと過ごした「最後の晩餐」です。ミサでは最後の晩餐を再現し、カトリックの洗礼を受けた信者は、キリストのからだである「パン」をミサの中で拝領することができます。

 司祭の手をとおして神の祝福はどなたでも受けられます。司祭が頭の上に手をかざして祝福します。

わからないことは、近くにいる方に遠慮なくお尋ねください。

 復活祭、クリスマスなど、大きな祝日にもぜひ来てみて下さい。

カトリック入門講座へどうぞ (コロナウイルス感染拡大防止対策のため休講中です

 教会では、毎週木曜日午後3時から聖書講読、入門講座があります。

 どうぞ講座の門をたたいてください。いつからでもかまいません。どなたでもどうぞ。神父に何でも聞いてみてください。

…祈り…

[エルフ・ヘルプブックス]祈りセラピー より

キース・マククレラン著 

目黒 摩天雄 翻訳 

発行所 サンパウロ 

 

まえがき より

 

 おだやかな心と安らぎを望んでいない人は一人もいません。けれども、現代の多くの人は、祈ることができないと思っています。自分の周りにある祈りのチャンスに気がつかないだけなのかもしれません。私たちはだれでも祈りのタレントを預かっているのです。

 ベネディクト会士キース・マククレラン師の『祈りセラピー』は、簡潔な言葉で長年の知恵を提供し、私たちを励ましてくれます。

 真の祈りは、有機的なものです-それは、私たち自身の生活、人柄、必要、リズムから生まれ成長するのです-。 毎日、そしてすべての時間は祈りのチャンスに満ちています。これらの時間をうまくつかめば、とても豊かな可能性に向かって自分を開くことができます。しかも、それがとても効果的な癒やしとなるのです。

 本書を通して「ふるさとへ帰りたい」と願うあなたの心が「ふるさとへの道」を見いだすことができますように。

 

-<本文より>---------------

 

落ち着かない心は、祈りの第一歩です。

心の動きに耳をかたむけましょう。

Prayer begins in a restless heart.

Listen to its stirring.

    ・・

言葉や形式を心配しないでください。

祈りとは聴くことなのです。

Don't worry about words or formulas.

Prayer is a listening

    ・・

わけがあって祈れないときには、

肩の力を抜きましょう。

祈りたいという気持ちは、

もう祈りになっているのです。

If, for any reason, you cannot pray, relax.

The desire to pray is already a prayer.

    ・・

靜かな時間を、祈りのために使いましょう。

沈黙によって、「はかりしれない方」へ導かれます。

Use quiet times for prayer.

Silence draws you to the Infinite.

    ・・

にぎやかな時間を、

祈りのために使いましょう。

ざわめきは、

神をさがし求める被造物の叫びです。

Use noisy times for prayer.

Sound is the clamor of creation seeking God.

    ・・

祈ることは、呼吸をするのと同じです。

深くなれば豊かな生命に満たされます。

To pray is to breathe.

Do it deeply and you will be filled with life.

イシドロ・リバス著

 「ミサ 神の愛の確認 -不安から希望へ-」 新世社 より

 現代人の私たちには、「礼拝」という言葉はあまりピンと釆ないと思いますが、それは非常に意味深く、きれいな言葉です。私たちは毎日の生活の中で神をほとんど意識せずに、神に祈りや感謝等ほとんどしないで生きています。したがって「礼拝」という言葉がピンと来ないのは当然です。困った時に祈る時でも、神を拝んで神を中心にして祈るよりも、むしろ自分の今の悩みの中に溺れて、自分だけが存在して自分が全世界の中心であるかのようにしか意識しないと思います。

 しかしそのような自分の不安があっても、あるいは深い罪悪感の中にいても、もし祈り続ければ、少しずつ落ちつくようになります。子供が道に迷って泣きに泣いて、母親にまた出会って抱いてもらえるように、私たちも絶対的なものに頼れることはありがたいことです。自己中心に感じている間は礼拝することができず頼ることしかできないのは当然なのです。

 しかし少しずつ神のありがたさを感じてゆくにつれ、神に対してただ祈願の祈りだけでなく、少しずつ感謝したくなります。すなわち不安の中からいつも救って下さって、いつも頼れる絶対的な支えを与えて下さることのありがたさのために感謝し、賛美できるようになります。それは自分のエゴから脱皮し始めることのしるしです。