イエスにとって行動を起こす動機

(大人の教会学校2019年9月)

 イエスにとって行動を起こす動機は、はらわたをつき動かされたということなのです。ですから、わたしたちも、はらわたをつき動かされることがない間は、あまり無理して建て前だけで、「さあ、福音を宣べ伝えましょう」と走りまわるようなことはしない方がいいかもしれません。どうせ、ろくなことをやりはしませんから。伝えてあげよう、教えてやろう、知識を分けてあげようとか、上から目線で空まわりするのが関の山でしょう。・・・

  

  イエスははらわたをつき動かされ、手をのばしてその人を抱きしめ、「清められるように」と言った。するとらい病は去り、その人は清められた。イエスはその人に深い感動をおぼえ、いそいでかれを追いやった。(マルコ福音書1章41~43節)

 

 らい病を患っているひとりの人が、イエスのもとにやって来た。ひざまずいて、「どうか、お力でわたしを清めてください」(1章40節)と願ったと言います。当時の宗教上の偏見と、世間の人々の目ゆえにへりくだるしかなかった。本当に弱い立場に立たされた、らい病を患った人でした。

 イエスには、その人を清める自信があったのでしょうか。どうも、そうではないようです。わたしたちは、イエスには、癒しのパワーがある、と当然のことのように期待しがちですが、福音書を読むかぎり、イエス自身は必ずしも自分には癒しのパワーがあるとは思っていなかった。「清めてください」と言われれば、「清められたらいいね」と返すしかない。「清められるように」とはそんなことばです。そして、「手をのばしてその人を抱きしめ」たと。

 「抱きしめ」たと訳したギリシャ語のハプトマイですが、従来、さわる、ふれるといった、軽くタッチするというニュアンスで訳されてきました。・・・ところが、ハプトマイは、英語に訳せば「ファッスン・ヒムセルフ・トゥ」、「クリング・トゥ」、「レイ・ホールド・オブ」となる。しっかりとかき抱く、抱きしめるという意味なのです。・・・出血病を患っている女性が群集の中にまぎれてイエスのそばに近寄って行き、こっそりその着物につかまった、という箇所(マルコ福音書5章25~34節)がありますが、そこもハウプトマイです。

そこは、「クリング・トゥ」で、着物をしっかり握ったということです。「助けて」という思いを込めて握りしめるわけです。さわったとかふれたなどというニュアンスではありません。・・・したがって、らい病を患う人を「手をのばして」、ハウプトマイしたとは、すなわち抱きしめたということなのです。そして、「清められるように」、清められたらいいねと願いをこめて言った。「するとらい病は去り、その人は清められた。」・・・「治ればいいね」と思って、らい病の人とかかわるイエスのやり方が、結果的に病を治してしまった。そのことに本人が驚くというように。この時代のらい病は、けがれというだけではなく、神から呪われている印としての病気なのだと思われていましたから、イエスのかかわりはそのけがれを共有しようとするものなのでした。せめて、いっしょに癒しを願おう、と。すると、結果的に治ってしまったというのです。

 【「聖書を発見する」 本田哲郎 岩波書店 179~182頁】